前回、一年前に書いた記事を載せました。かつて立川と昭島市内を走っていた〈五日市鉄道〉=〈五鉄〉のことです。廃線跡に興味があったので、数回に分けて書いていました。今回もその2回めをリサイクルで載せます。
昭島市内は、かつては幾つかの「村」に分かれていました。今回の記事は、郷地(ごうち)村、福島(ふくじま)村だった辺りのことになります。二つの村は、南北に細長く、それぞれ昭和記念公園の敷地の一部まで広がっていました。今は住居表示が実施され、郷地町、福島町となり、郷地町の一部は東(あずま)町になっています。
東町というところは、旧陸軍の施設が無くされ、戦後に住み始めた人が多いところです。加えて昭和20年代から30年代、小河内ダム(奥多摩湖)が造られるときに、旧小河内村に住んでいた方が多く移り住んできた場所でもあります。
昭島市内は、かつては幾つかの「村」に分かれていました。今回の記事は、郷地(ごうち)村、福島(ふくじま)村だった辺りのことになります。二つの村は、南北に細長く、それぞれ昭和記念公園の敷地の一部まで広がっていました。今は住居表示が実施され、郷地町、福島町となり、郷地町の一部は東(あずま)町になっています。
東町というところは、旧陸軍の施設が無くされ、戦後に住み始めた人が多いところです。加えて昭和20年代から30年代、小河内ダム(奥多摩湖)が造られるときに、旧小河内村に住んでいた方が多く移り住んできた場所でもあります。
以下、一年前の記事です。
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前回は、立川駅を出た五鉄が次の武蔵上ノ原駅に至るまででした。今回はその次の〈郷地〉駅跡から〈武蔵福島〉駅跡までの様子です。

郷地駅は、立川市と昭島市の境、立川市から西に延びる〈立川南通り〉とここから昭島市内を西へ向かう〈江戸街道〉が繋がる地点あたりにありました。今では広い道路が縦横に通っていますが、かつてはこの画像のガソリンスタンドの右側を、向こうから線路が敷かれていました。
〈郷地〉という町名が今も昭島市に残っていますが、この辺りは現在は〈東(あずま)町〉で、郷地町はもっと南側にあります。
〈郷地〉という町名が今も昭島市に残っていますが、この辺りは現在は〈東(あずま)町〉で、郷地町はもっと南側にあります。

反対側の画像です。この交差点から少し左に曲がり、正面の建物のある辺りの先に線路が伸びていたはずです。

上の画像の裏手です。線路敷き跡が、一部は未舗装のまま残されていました。この部分は、誰の所有地なのか、ハッキリしません。

未舗装な部分の先は綺麗に舗装されて〈五鉄通り〉という正式な昭島市道になっていますが、上の画像の奥で突然、途切れてしまいます。

途切れた先に細い道路(幅4mくらい)が現れていますが、昭島市の市道では無さそうです。
武蔵福島駅跡付近は、線路敷きだった痕跡はほぼ無くなっています。おそらくコインパークの辺りに駅があったのではないかと思います。
武蔵福島駅跡付近は、線路敷きだった痕跡はほぼ無くなっています。おそらくコインパークの辺りに駅があったのではないかと思います。

今回辿った辺りの地図です。青梅線の西立川と東中神の南側を並走するように五鉄の線路がありました。
トップの画像は、武蔵福島駅跡の北側にある昭和公園内の〈自由広場〉です。
自由広場は、戦後間もなく開催された国体での相撲の競技場に使用されました。
トップの画像は、武蔵福島駅跡の北側にある昭和公園内の〈自由広場〉です。
自由広場は、戦後間もなく開催された国体での相撲の競技場に使用されました。
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