2015/11/22

カレンダーなど


立川印刷所という地元の印刷会社があります。
 戦後、ずっと地元の出版物などを手掛けてきた会社で、この数年来、昔の立川市内の写真を使ったカレンダーを制作しています。
 ここでお仕事をされていた方のお一人が、今、私が勤務する施設に通所いただいており、
 『(立川印刷所の)カレンダーがもう売り出されてるぞっ!』
 と、暗に『買ってきてくれ』と言われてしまいました^^;


 カレンダーに加えて、写真集<立川の風景 昭和色アルバム~立川界隈>と<同~シネマシティ・写真>も入手しました。
カレンダーの1・2月は、まだペデストリアン・デッキなんてモノが無く、高層ビルも無かった1960年の立川駅北口です。ボンネット型の立川バスや京王バスなどが何台も写っていて、朝の通勤・通学時間帯の様子だと思います。今も立川は周辺からバスで通勤・通学する人が多く、人の多さは変わっていません。
 私が幼い頃、母に連れられてこの立川駅周辺までバスで来たことを憶えています。人が多くて、迷子にならないように気をつけていました。

 このカレンダー、実は昨年までのものも施設にストックしており、通所いただいている方々にも手に取ってみていただいています。
 『ああ、そうそう、ココは覚えてる!』
 『昔の伊勢丹は、ココにあったんだよねぇ~』
 などと、とても熱心に、食い入るようにご覧になっています。来年のカレンダー、そして写真集も、きっと楽しんでもらえると思います。


 写真集の中にあった古い自転車店の写真です。この隣にある青果店は、廃業したものの建物は残っていますが、残念ながら自転車店の方は建物も取り壊されています。
屋号は<忌野自転車店>。清志郎さんの他にこの苗字があることを初めて知りました。残っていてほしかった自転車店です。


 カレンダーと写真集は、立川印刷所やアマゾン、立川市内のオリオン書房で購入できるようです。

株式会社立川印刷所のホームページ



2015/10/11

BGM


 一般的に、介護が必要な高齢者が(主に)日中を過ごすためのデイサービスでは、ご利用者様がいらっしゃる時間帯に音楽を流していることが多いと思います。
 私たちの施設でもそうです。動揺や唱歌など、高齢者の琴線に触れる楽曲も良いのですが、私たちの施設にいらっしゃる方々は、ご自身の力で生活することができる方、まだまだ若い感覚をお持ちの方がたくさんいらっしゃいます。
 社長も『私たちの施設は、今までの高齢者向けの施設とは少し違う、サロンのような雰囲気を作る』と、考えており、それに沿ったBGMも考えています。

 一年前、施設が開設されたとき、会社が用意したヒーリング系やジャズの他に、山本恭司さんがプロヂュース、演奏した“六弦心”や浜口祐自さんのアルバムなど、私自身が聴いてきた音楽の中から選んだものも加えていきましが、ご利用者様が増え、音楽のリクエストも承ることも起きました。
 それがWes Montgomeryの“The Wes Montgomery Trio”です。1959年に録音されたライブ・アルバム、これがご利用者様のお一人の思い出のアルバム、音楽だったそうです。今はCDの操作も難しがられて、聴くこともなくなっていたアルバムを再び聴くことができ、とても喜んでくださいました。
 お一人の好みに合わせて音楽を選ぶわけにはいきませんが、“The Wes Montgomery Trio”は聴きやすく軽快な曲も多いので、リクエストをいただけて、かえって幸いです。
 Round MIdnight / Wes Montgomery

 もう一枚、ジャズのアルバムを加えてみました。
 Wynton Marsalisの“Marsalis Standard Time Vol.1”です。タイトル通り、“枯葉”などのジャズ・スタンダード・ナンバーばかりのアルバムで、これも聴きやすいと思って選んでみました。ずっとギターが主人公の音楽ばかり選んできましたが、初めてのトランペットが主役のアルバムです。

 10年前、私が介護の現場に入ったころ、
 『いずれ介護施設でも(BGMに)ビートルズが流れる時代が来る』
 と、言われていましたが、現状はまだそこまで達していないように感じています。要支援や要介護が必要になる年齢が高まって、ビートルズが先送りされているのかな?とも思えます。

2015/09/13

西立川界隈_02 隣の東中神駅のこと


 東京・多摩西部を走るJR青梅線の始発駅立川から二駅め、〈東中神駅〉は、赤い屋根の小さな駅舎がシンボルです。多くの駅が近代的な駅に建替えられていますが、こんな昔ながらの駅舎が残っているのは、立川~青梅間では東中神駅だけになってしまいました。


 改札を通ると、ホーム(下り)に直結する作りで、昔の駅にはこんな感じのところが多かったと思います。


 跨線橋を上って、三角屋根を見降ろしてみました。シンプルな切妻屋根です。この赤い屋根が街のアクセントにもなっていたと思います。


 この、雰囲気の良い駅舎が建替えられることになりました。ずいぶんと近代的な橋上駅に生まれ変わる予定です。
建替えは、東中神駅北側に広がる国有地の再開発と連動するものです。


 米軍立川基地跡地は、昭和記念公園や自衛隊駐屯地、行政庁が並ぶエリア、商業エリアなどに代わってきましたが、今回の再開発エリアは、返還後40年くらい手つかずの土地だったところです。
そこに国際法務総合センターを中心とした施設ができる予定です。公的な施設だけでなく民間利用の土地も計画されており、大規模な再開発になります。
 その玄関口になる東中神駅は、現在の設備では心細かったのでしょう。



 下りホームから上りホーム方向を撮ってみました。木製の長いベンチがあり、屋根を支える柱や梁も木製です。


 前夜から青梅駅に留置されていた〈青梅ライナー〉用の列車が回送でやってきました。地方の駅のような風情です。


 東中神駅らしい構図で撮ってみました。駅南側には団地が広がっています。昭和40年代に建てられた団地は、当時のこの辺りでは高層建築物でした。
 
 これから多くの人が利用することになる駅ですから、建替えも当然だし、便利で綺麗な駅になるのだから良いことなんでしょうが、目に馴染んだ昭和の風景がまた一つ減ってしまい、ちょっと寂しい気もします。

2015/08/15

伯父の戦記_比叡と私


 今日は8月15日、終戦記念日です。

 亡くなった私の伯父は、昭和17年から終戦まで旧海軍に従軍し、戦艦<比叡>に乗艦していました。
 比叡は、南太平洋のソロモン諸島付近が戦闘場所となった<第三次ソロモン海戦>で米軍の攻撃を受け大破し、自沈という最期を迎えたのですが、伯父は、そのときに乗艦しており、近代海戦の凄まじさを体験しています。その体験談を遺してくれました。
 伯父は文筆家でもなく戦後は普通の会社員でしたから、その文章は整理されたものではありませんが、そのまま掲載します。長文ですが、おつきあいいただければ幸いです。

 『止むにやまれぬ戦争であった』
 というのが伯父の想いでした。 戦争に対しては、人それぞれいろいろな想いがあろうかと思いますが、実際に戦場で戦った人には、私たちの世代が感じきれない強い想いがあったのだと思います。
 
*************************************************************

 私は、昭和17年1月10日、年令20歳と2ヶ月のおり、極めて純真なる精神と大きな誇りをもって帝国海軍に入隊した。時、正に我が大日本帝国は開闢以来の国家存亡をかけての戦いが強いられていた。
 即ち、昭和16年12月8日、米英蘭に対し宣戦布告したその1ヶ月後のことである。若き私の胸中は米英蘭撃滅の気概に燃え胸をはって横須賀海兵団に入団したものである。

 3ヶ月余りの厳しい新兵教程を無事卒業、4月には連合艦隊第二艦隊第三戦隊で、その名を誇る戦艦比叡に乗艦を命ぜられた。この時の私の心境は、帝国海軍の一水兵としてお国のためにお役に立てる喜びと、栄誉ある戦艦比叡の乗組員となれた喜びで一杯であった。又それと同時に、その責任の重大さをひしひしと痛感したものである。

 さて、顧みれば、今日の私がこうして存在し、又一世一代の大戦に参加出来たのも、これ一重に慈愛と労苦をもって育ててくれた父母の目に見えない並々ならぬ養育の賜と深く感謝している。

 私達は、比叡に乗艦したその時から新三等水兵として、艦隊勤務の厳しい訓練の毎日が待っていた。しかし、この当時の戦況は勝敗を左右するような戦いが、随所において行われ一瞬の余裕も許されない。又私達新兵が一人前の兵隊となるまで待てる時間もなかったようである。

 17年5月には私達を載せた連合艦隊は、大作戦行動のため母港横須賀を出撃、6月には攻略部隊主力として、ミッドウェイ海戦に参加、引き続いて北方部隊支援のためアリューシャン作戦にも参加、7月には機動部隊の第三艦隊第11戦隊に編入されて、休養の暇もなく南方の前進根拠地トラック島に進出、それ以後はトラック島を基地として、敵機動部隊に備え幾度か出撃を繰り返したことだろう。

 こうした多忙の中でも、8月には第二次ソロモン海戦、10月には南太平洋海戦にと、矢継ぎ早に海戦に参加、そして、ついに私に取っては終生忘れることの出来ない強烈にして悲惨な死闘の戦場、世に言う第三次ソロモン海戦(昭和17年11月13~14日)を体験したのである。
 私は副砲分隊(5分隊)員であったが、唯々、自分の任務を全うする事が精一杯であった。従って、この海戦の全般的な経過など何一つわかろう筈もない。私がこれから述べようとする体験記は、飽く迄も私の身近で起こった数多くの戦闘場面を記憶を辿り綴ってみたものである。

 この作戦の目的等については、すでに多くの記録によりご存知の事と思われるのでここでは省略致しましょう。
  昭和17年11月9日と言えば、日本内地は秋風が吹いている頃である。戦艦比叡(本艦)は、他に戦艦1隻、軽巡1隻、駆逐艦11隻を率い特攻隊の旗艦として、根拠地トラック島を出撃、直ちに戦闘配備をもって一路南下、ガダルカナル島目指して突進していったのである。
 私は副砲砲台員であるのにどうした事か、海戦突入の数時間前迄は電報取次の当直員を命ぜられた。その任務は、入電した種々の暗号電報等の通信文を、艦橋の首脳陣である司令官、幕僚及び艦長等にお届けするのが役目であった。そのために海戦突入の11月13日15時頃迄の敵味方の行動の一部を知り得る事ができたのである。
 例えば、
 ①敵艦隊十数隻は輸送船団を伴いガ(ガダルカナル)島に接近中なり。
 ②我が特攻隊首脳陣は見方偵察機からその後の連絡を待つ。
 ③敵艦隊の動向を考慮しながらもガ島への艦砲射撃の目的完遂に執念を燃やしている首脳陣の動き。
 ④ガ島の日本軍に対し、特攻隊より敵飛行場南側に「ノロシ」を上げるよう指示。
 ⑤これを了解した旨の返信あり。
 ⑥敵艦隊はルンガ沖泊地に兵員武器弾薬等の揚陸作業を開始した。
 ⑦敵艦隊は、ガ島の残存日本軍に対し、艦砲射撃を開始した。今尚続行中なり。

 こうした情報が飛び交う中、私は次の当直員と交代し、本来の戦闘任務に復帰した。そして、ついに11月13日(金曜日)敵にとっても、味方にとっても共に運命の別れ道に突入していったのである。

 23時頃に我が特攻隊全艦は戦闘配備に就き、ガ島に肉迫しつつあった。艦内(居住区)には、薄暗い電灯が一つ、我々兵員の真白い戦闘服をことさら白く鮮やかに見せていた。そして、そこに見る兵員の顔はみんな緊張と興奮のせいか、青白くこわばり物凄い形相である。

 こうして今迄体験した事もない雰囲気の中、砲撃開始のブザーを今か今かと唾をのんで待っている。艦内は物音一つしない静かさである。外舷に砕かれる艦首波の音のみが不気味に耳につく。正に嵐の前の静けさとはこのことであろう。軍歌の一節にある「たとえ敵艦多くとも何恐れんや」の気魄が満ちみちて、若き血潮が体中に張っていた。冷静で無我の境地とでも言うのであろうか、それ以外の何ものでもなかった。我々の胸中は一途に成功を祈るのみである。

 23時41分頃と記憶しているが、トップ(副砲射撃指揮所)より「射方始め」・・・・・・のブザーが艦内にけたたましく鳴り響いた。その瞬間、主砲、副砲、高角砲の全砲が一斉に火を噴いた。目の前がその閃光でパーと明るくなり、まるで無数の「フラッシュ」を一時に浴びたようである。艦は一斉射撃の反動で振動と共に大きく揺らぎ傾斜した。と同時に初弾命中の声を耳にした。

 その時である。敵砲弾も又、比叡に命中してきた。この時私は数時間前に首脳陣が予測していた敵艦隊との交戦である事を直感した。
 轟音、振動の激しい連続の中、我が砲台も数斉射砲撃をしていた時である。激しい轟音の一瞬我が砲台にも敵弾が命中炸裂した。射手は断片を腹部に受けて即死した。直ちに死体を砲側から引き下ろそうとしたが、上下半身がちぎれそうでどうにもならない。すでに私の戦闘服は鮮血に染まり、手は血と腹の臓物で生ぬるく感じ異様な臭いが鼻をつく。急遽死体を居住区の片隅まで運んだ。

 こうした僅かな時間にも交代したばかりの予備射手が目をやられ重傷、今度は一番砲手が射手に代わるという目まぐるしさ。敵味方の砲撃戦は一段と熾烈さを増していった。

 比叡は砲撃の度毎に轟音と共に傾斜、頭上では上甲板の建造物や艦橋等が敵砲弾で破壊されているのか、炸裂音と崩壊する騒音で、天地を引っ繰り返したような凄い音である。
 隣の居住区(砲かく)でも弾片が暴れまわっているのか、鉄壁に激突し「ガランガラン」と音をたてている。又他の居住区(砲かく)では敵弾が外舷より艦内に突入、砲側にあった弾薬?を貫通、その中の火薬に点火し一瞬にして居住区(砲かく)内は火の海と化してしまった。
 周囲はまるで数百個の「バケツ」をムチャクチャに叩いているような騒音である。肉片は飛び散り血の海となり、地獄の惨状を呈していた。

 それから数分後のことである。我が比叡の射撃が急に中断してしまった。
 射手や旋回手は「トップ(射撃指揮所)はどうしたのか、何をしているのか」と必死で叫ぶ。だが何の応答もない。
 この時、既に比叡の中枢である艦橋や副砲指揮所、高角砲台、及び機銃砲台等が壊滅的打撃を受け、火災発生して上甲板は修羅場と化していたのであった。

 敵艦隊はこの炎に包まれた比叡に対し、四方八方から容赦なく十字砲火と魚雷をもって攻撃して来たのである。まるで帆船時代の海戦かと思われた。振動と爆発音の交錯である。
 私達砲員は、射撃が中断されている事に苛立ちと焦りを感じていた。その間にも居住区の隅にいる負傷者が、いや戦死者迄もが何か不安気に我々を見守っているかのように見えた。その目には、戦友愛、兄弟愛からくる労わりと励ましの、そして又、何かを祈っているような目つきであった。

 突然、砲側伝令が大声で鋭く怒鳴った。
 「各砲、砲側照準」となせ、遂に指揮官の命令なく各砲は単独で敵艦との一騎打ちの戦いとなった。
 これで砲員の表情は再び活気を取り戻した。射手・旋回手は直ちに照射孔を開き、敵艦発見に全神経を集中、敵艦影を求めた。敵か味方か、数隻の艦艇が炎上し夜空を真赤に焦がしていた。
 数秒後、旋回手が「反航する敵」と叫んだ。と同時に射手は速やかにこれを確認、その一瞬轟音と共にこの敵艦を砲撃した。「命中命中」と叫ぶ。この時、私達砲員は、先輩下士官の腕前に驚嘆し、且つ喝采もした。その時である。揚弾薬機孔より弾薬が揚がって来なくなった。
 私は中部弾薬通路の弾薬員に対し、「弾薬はどうした」と叫んだ。するとその弾薬員は、「俺の所にも弾薬庫から揚がって来ないんだ」と苛立ちの声で回答があった。
 その時である。中部弾薬通路にも敵の一弾が飛び込んで炸裂し、一瞬にして火の海と化した。そして、そこには先程迄言葉を交わしていた弾薬員の姿も無く声も無い。
 硝煙の臭いのみが強く鼻をつく。このような舷々相摩す乱戦は更に続けられていった。轟音騒音震動音の中、突如真赤な炎の機銃弾が居住区(砲かく)内に飛び込んで来た。これは正に敵駆逐艦が比叡に対し肉迫、魚雷攻撃中の転舵射撃の乱射であった。敵も中々勇敢である。

 比叡の火災は更に激しく、我が砲台にも消火の為の海水が濁流となって流れ込んできた。その水は血と重油とが混入した一種独特の悪臭がしていた。

 この頃である。艦内の狭い通路を戦闘服を鮮血に染めた兵隊が何やら怒鳴り乍ら艦首の方に走って行くのを見た。その後にこれも鮮血に染まった重傷者が戦友の肩を借り、又或る者は担架で運び出されていった。恐らく戦死者であろうか?この一瞬私の脳裡を何か不吉な予感がかすめていった。「ああこれで、この俺も21才の若き肉体をこの比叡と共に南海の水漬く屍と化すのではないか」と。

 しかしこうした予感も目前の光影にすぐ掻き消された。我が比叡は今尚敵艦隊の集中砲火を浴びつつあった。炸裂音震動音も凄まじい。

 誰が言うともなく操舵室にも命中弾があったとか。その為比叡(本艦)は操舵不能となっていた。艦長は直ちに人力操舵に切り替えるよう命令を下していた。兎に角、早朝になればガ(ガダルカナル)島の敵飛行場から敵機の来襲があるのは明らかである。一刻も早くこの戦場から脱出しなければならない。

 人力操舵への切替え作業は兵員の必死の作業である。それにもかかわらず未だもって修復できないとは。時間は容赦なく進むのみ。ガ島の島影は墨絵のように見えた。今の比叡は敵の湾内において絶体絶命の運命にさらされていた。夜が明ければこの重傷の比叡に対し、敵機は群がる禿鷹のように襲いかかって来るであろう。暗夜の海上では尚も砲声が轟いている。

 私は薄暗い電灯の下でじっと自分の運命に逆らわず耐えていた。それは少年時代、父からよく聞かされていた「軍人としての最後の姿」のことである。

 日清日露の海戦当時、不幸にも自分の艦が沈没に遭遇した時、潔く艦と運命を共にする事であった。勿論、今の私にもそれなりの覚悟は出来ていたが、しかしよく考えてみると何か割り切れない気持ちが心の奥にただよっている。死を恐れているのではないが、無傷の俺が再び戦場に立つことが出来るからかもしれない。

 今の比叡は静寂の中に取り残されている。どこの破孔口から流れ込んでくるのか、海水の音ばかり悪魔が呼んでいるかのように無気味に聞こえてくる。艦は5度程の傾斜を保っている。みんなは無言のままでそれぞれが比叡のなりゆきや、自分の運命はと心配しつつ配置に就いていた。その姿は微動だにもしない。

 この時主計兵が戦闘食(乾パンとミルク)を居住区(砲側)に放り込んでいった。それでもそれを食べようともしなかった。やはり、昨夜来の激しい戦闘と、そして目前の戦友の無惨な死体や、疲労から来る脱力感、修羅場と化した周囲の惨状、血と重油、そして硝煙の臭いなど体験者でなければ理解出来ない。それが食欲減退の原因であったのだろう。今は静かであり、時計の鼓動が時の経過を知らせている。

 さて、この辺で一寸比叡を中心とした日米艦艇乱戦の中で、米艦隊とその乗員の悲惨な光景の一部を、著者相良俊輔氏の書「怒りの海」から引用してみよう。

 比叡の主砲に叩きのめされた「アトランタ」は170名が一挙に屠られ、重軽傷者は300名に達した。
 更に「ジュノー」は700名の乗員のうち400名が戦死した。
 行動不能となった「ラフェイ」の生存者は海中に飛び込んだものの、艦体の爆発で飛散し全員即死したと言う。
 「カッシング」も亦、弾薬庫の誘爆で、数十名の負傷者を残したのみで生存者無しと言う状態であった。
 特に悲惨を極めたのは、我が駆逐艦「夕立」の魚雷攻撃で沈んだ「バートン」の乗員であった。尚隊列の後尾にいた「モンセン」は比叡に5本魚雷を放ち、果敢な攻撃振りを見せた。
 が、逆に比叡の副砲による集中砲火を浴び反転を計ったが、その時、燃える「バートン」から逃れ、海中に飛び込んだ300余名の真只中に艦首を突っ込んでしまったので、漂流中の「バートン」の乗員の殆どが「モンセン」の舷側で砕かれ、また高速で走る波に巻き込まれた挙句、スクリューで切り刻まれると言う惨状を呈した。
 断末魔の絶叫が海面につんざき、逃げまどう水兵と手足のちぎれた死体が折り重なって悲愴な地獄図の光景を繰り広げたと言う。
 又こうして数百名の仲間を一瞬にして屠殺した「モンセン」も、その直後誘爆を起し、乗員諸共海底に呑み込まれてしまったそうだ。
 この40数分間の戦闘で、米艦隊は12隻を撃沈破され、5千数百名の将兵を失ったのである。
 正に近代海戦における大量殺戮の凄まじさを如実に見せつけたのである。

 ・・・さて、心配していた時刻は無情にも迫って来た。夜が明けると比叡の運命は自分の運命である。一段と深刻な事態を迎えねばならない。居住区内に一層の緊張感が増す。心を改めて覚悟を決める。

 そして朝はしらじらと明けてゆく。昨夜来のスコールも夜明けと共にやんでしまい、すっかり晴れて今朝はうそのような天気である。眼前の「ガ(ガダルカナル)島」は美しい。本当に美しい。こんな美しい島を中心に悲惨な戦闘が、無情にも繰り広げられているとは思えない程である。

 しかし現実には、血みどろの戦いで数多くの将兵が死んでいるのである。愚かにも思えた。一日も早くこんな戦いから逃れたいと念じるのみであった。しかし戦いという歯車は留まる事を拒み、回り続けるのである。

 早朝5時頃と記憶するが、予想通り敵機は航行不能となった比叡に対し、爆撃機と雷撃機をもって攻撃して来た。

 比叡は残存火砲をもって敢然と応戦したが、この時の苦闘する比叡の姿は、痛ましく又壮絶にして悲愴な光景を呈していた。敵機は比叡に止めを刺すべく一波二波と、波状攻撃で襲って来た。

 その度に比叡は蛇行運動を繰り返し、敵機の攻撃から身をかわす。周囲の味方駆逐隊は、対空火砲をもって比叡を守ってくれた。涙が出る程嬉しかった事を覚えている。幸い敵機の技倆は未熟なためか、今の処爆弾も魚雷も命中しなかった。しかし敵機は、質より量で第三波第四波と繰り返し我が砲火の網の目を潜り抜けて攻撃して来た。

 こうして数時間の戦闘が続く中、気分的に多少のゆとりが出て来たのか、空襲の間にも何時、誰とはなしに戦闘食の乾パンやミルクを口に運ぶようになった。そこには笑い声さえ出て来たのである。戦場の心理と言うものはおかしなものである。

 しかし再び対空戦闘が始まると又緊張する。轟音震動の連続の中、遂に爆弾数発と魚雷の命中を受けるに至った。この瞬間、比叡はまるで高級車が壁に激突した時のように、大きく上下左右に踊った。それはあたかも最後の?きにも似た感があった。これで比叡は完全に戦闘不能に陥ったのである。

 この凄愴苛烈な戦闘は10時間の死闘を経過し、正に近代海戦の常識を超えた海戦と聞いている。又この海戦で比叡は敵砲弾だけでも命中弾80発以上、その上来襲敵機70機以上に及んだ。

 さて、戦闘不能となった比叡(11戦隊首脳陣)は、連合艦隊司令部との間で様々な議論を交わしていた。曳航か、放置か、囮りとなるか、味方駆逐艦隊の魚雷で処分するか、であった。

 しかし比叡はこれら全てを拒み続け、最後は自らの手(自沈)で命を絶つことになる。

 そして、ついに時間は定かではないが、生存者に総員退艦の命が下された。戦闘配置を離れた兵員は決められた順に整然と後甲板に集合を始めた。艦内から出てくる兵の姿は皆鮮血に染まり、顔は硝煙で真黒となり、頬は落ち目は窪み別人の如くである。

 さもあろう、昨夜来の戦闘で全神経と体力の限りを消耗し、精神的な打撃は計り知れないものがあった。兎に角、人相の変貌には驚きの声すら出なかった。

 周囲には次々と鮮血に染まった重傷者が運び出されて来るし、その中には爆風で戦闘服は剥ぎ取られ全身大火傷の兵もいた。自分の分隊の者と誰も顔を見ただけでは判別が出来ない。膨れた顔は皆同じ顔である。背中は「リュック」を背負ったように水膨れし、手は指先迄が「ゴム」の手袋をしたようである。従ってこの負傷者の氏名を調べるには褌に書いた氏名で判別したのであった。

 戦友達は、こうした兵隊を風が当らぬようにと周りを囲んでいた。しかしこうした兵隊達の殆どは、無気力で人間としての表情も失われ、唯々茫然としている。

 座ることも横になることも忘れている。目は虚ろで或る一点をじっと見つめている。言葉をかけても何の反応もない。正に蝋人形のようである。戦友よ、魂は何処へ行ってしまったのか。せめて痛いとか、苦しいとか言ってくれ。頼む、たのむ。

 昨日迄苦楽を共に語り合った戦友のこの変わり果てた姿を見て、戦争の残酷さと悲惨さをまざまざと見せつけられたものである。本当に涙なくしては語れるものではない。

 退艦は順調に進められている。今尚味方駆逐艦隊は対空戦闘を続行している。私は改めて周囲の惨状を見て愕然とし、自分の目を疑った。それは、主砲はビクともしていないが上甲板以上の構造物(艦橋及び周辺)は大損傷を受けていた。又主砲を除く火砲(副砲、高角砲台、機銃砲台)等の殆どは全滅に等しい惨状を呈していた。

 天を仰いだままの砲もあれば水面、或いは左右を向いたままの無惨な姿である。機銃砲台では残りの弾薬が誘発を起し、時折り「ドカーンドカーン」と爆発している。艦橋周辺は火災のあとも生々しく焦土と化していた。そのあちこちには手足首、上下半身バラバラの戦死者が散乱し、肉片が飛び散りこびりついている。地獄図を見ているような惨状である。

 こうした中にも部下の消息を、或いは上官の消息はと、呼び交う声が痛く哀しく私の耳に入って来る。海上では味方駆逐艦から発進した内火艇が荒波にもまれながらも本艦(比叡)の乗員の救出を続行している。この頃になると、味方駆逐艦も損傷を受けていることがわかってきた。

 生か死かの岐路に立つこの数十分、やっと副砲分隊員の退艦の時が来た。この時、私の心の底に何か言うに言われない淋しさと孤独感が襲って来た。何故か、それは傷つき倒れ死んでいった戦友を置きざりにして戦場を離れる事か?或いは又、例え人間が造った艦(比叡)であろうとも、火達磨となり火を噴き傷つき、共に戦い苦しんだこの艦が一個の鉄の固まりだけとしては考えられない。もっと何か尊い生きものであったような思いがしたのである。

 今一つは私が艦に残してきた私物である。これも何か私の分身に思えた。これらを見捨てて戦場を離れる事に卑怯者か臆病者の様な自分を見た感があり、苦悩したものである。その結果がこうした淋しさに現れたのであろうか。

 さて、比叡の生存者を救出した各駆逐艦は、急速で戦場から離れ北上をしたが、夜間再び元の戦場に戻って来た。その時は比叡の姿は既に海上から消え去っていた。
 じっと目を閉じると、内火艇で比叡を去る時のあの最後の痛ましい艦影が脳裡に焼きついてなかなか消えようとしなかった。いや、この姿は私が生きている限り消えないであろう。

 今こうして北上を続けている駆逐艦内では、負傷者が手厚い看護の甲斐もなく次々と死んで行く。その亡き骸は礼砲が波間にこだまする中、丁重に南の海に水葬をもって永遠の別れを告げたのである。戦友の面影は何時迄もその波間から消えようとして消えず、私達の後を追って来るかのような錯覚さえ感じられた。

 以上が、第三次ソロモン海戦における私の体験記である。
 最後に、共に戦ったあの、今は亡き比叡乗組員の御冥福を心からお祈りするとともに、比叡よまた安らかに眠れ。

2015/08/02

昔の記事(2014/08/21)から_五鉄(旧五日市鉄道)跡_02

 前回、一年前に書いた記事を載せました。かつて立川と昭島市内を走っていた〈五日市鉄道〉=〈五鉄〉のことです。廃線跡に興味があったので、数回に分けて書いていました。今回もその2回めをリサイクルで載せます。

 昭島市内は、かつては幾つかの「村」に分かれていました。今回の記事は、郷地(ごうち)村、福島(ふくじま)村だった辺りのことになります。二つの村は、南北に細長く、それぞれ昭和記念公園の敷地の一部まで広がっていました。今は住居表示が実施され、郷地町、福島町となり、郷地町の一部は東(あずま)町になっています。
 東町というところは、旧陸軍の施設が無くされ、戦後に住み始めた人が多いところです。加えて昭和20年代から30年代、小河内ダム(奥多摩湖)が造られるときに、旧小河内村に住んでいた方が多く移り住んできた場所でもあります。

 以下、一年前の記事です。

*******************************************************



  前回は、立川駅を出た五鉄が次の武蔵上ノ原駅に至るまででした。今回はその次の〈郷地〉駅跡から〈武蔵福島〉駅跡までの様子です。
 郷地駅は、立川市と昭島市の境、立川市から西に延びる〈立川南通り〉とここから昭島市内を西へ向かう〈江戸街道〉が繋がる地点あたりにありました。今では広い道路が縦横に通っていますが、かつてはこの画像のガソリンスタンドの右側を、向こうから線路が敷かれていました。
 〈郷地〉という町名が今も昭島市に残っていますが、この辺りは現在は〈東(あずま)町〉で、郷地町はもっと南側にあります。 
 反対側の画像です。この交差点から少し左に曲がり、正面の建物のある辺りの先に線路が伸びていたはずです。
 上の画像の裏手です。線路敷き跡が、一部は未舗装のまま残されていました。この部分は、誰の所有地なのか、ハッキリしません。
 未舗装な部分の先は綺麗に舗装されて〈五鉄通り〉という正式な昭島市道になっていますが、上の画像の奥で突然、途切れてしまいます。
 途切れた先に細い道路(幅4mくらい)が現れていますが、昭島市の市道では無さそうです。
 武蔵福島駅跡付近は、線路敷きだった痕跡はほぼ無くなっています。おそらくコインパークの辺りに駅があったのではないかと思います。
 今回辿った辺りの地図です。青梅線の西立川と東中神の南側を並走するように五鉄の線路がありました。

 トップの画像は、武蔵福島駅跡の北側にある昭和公園内の〈自由広場〉です。
 自由広場は、戦後間もなく開催された国体での相撲の競技場に使用されました。

2015/07/26

昔の記事(2014/07/26)から_五鉄(旧 五日市鉄道)跡_01

 ちょうど一年前にgooのブログに載せた記事です。
 かつて、立川から武蔵五日市までを結ぶ<五日市鉄道>という民営鉄道があり、その内、拝島から武蔵五日市まではJR五日市線として存続しているものの、立川から拝島の間は昭和19年に廃止されました。
 去年の今頃は、この五日市鉄道の廃線跡を辿って、それを数回に分けてブログに掲載していました。
 同じ時期に今の会社に就職が決まり、職場が西立川駅近くになることが分かっていて、地元のことを調べてみようという頃でした。
 今、私たちのデイサービスをご利用いただく方々の大半が、この旧五日市鉄道の沿線とも言えます。戦前の記憶をお持ちの方は少なくなりましたが、それでも時々は<五日市鉄道>のことは話題になります。一年前に自転車で周ったことが、今、仕事でも役にたっています。
 以下、一年前の記事です。

****************************************************************



 4月から自転車で近隣を走ってみることが増えて、改めて地元のことを見直してみる機会が増えました。
 今回は、その中から<五鉄(ごてつ)>と略して呼ばれた鉄道の廃線跡のことを書きます。

 五鉄は、正確には五日市鉄道で、立川から拝島を経て、武蔵五日市までを営業していました。この鉄道は、現在のJR五日市線の前身で、現在の五日市線が拝島から武蔵五日市間ですが、昭和19年までは立川から拝島までの区間もありました。

 ↑現在の地図に、五日市鉄道の立川~拝島間を赤い線で辿ってみました。
 立川から1km弱の部分は、現在も中央線から青梅線への短絡線として使用されていますが、それ以西の部分は全て廃線となり、現在ではほとんどの部分が道路になっています。
  廃線となった理由は、既に開通していた青梅線(旧青梅鉄道)が並行するように走っており、第二次大戦末期の事情から、国有化の後、昭和19年に不要不急路線の一つとして休止され、そのまま廃線となったとのことです。

 その道路は<五鉄通り>と名づけられており、往時の名が使われていますが、鉄道らしい痕跡は全く見られません。

 例えば、拝島駅近くの五鉄通りは、両端が駐輪場になっています。この駐輪場の先は緩やかなカーブが続き、多摩川方向へ緩やかに下って行く線路跡の道路が国道16号線まで続きます。

 逆に立川方には、旧五鉄の跡らしきものがあります。<武蔵上ノ原>という駅があった位置は今も土盛りが残っており、駅があったことが分かります。上の画像の中央辺りの土盛りされた場所がそれです。記事トップの画像は、この反対側のものです。

 武蔵上ノ原駅の位置を地図上で表すと、上の画像のようになります。立川駅から1kmに満たない、駅間距離が短い場所にありました。
 現在の短絡線は、この先を右にカーブして行き、西立川駅に至りますが、五鉄は、この武蔵上ノ原駅を出た後、少し左にカーブして、現在の<江戸街道>上を1kmくらい走って<郷地>という次の駅に達していました。
 五鉄の続きは、跡を辿りながら改めて書いてみます。

2015/07/11

西立川界隈_01 航空支庁前踏切


(踏切標、上り線立川方、下り線西立川方に同じものがあります)

 JR青梅線の立川と西立川の間には、大小6つの踏切があります。
〈航空支庁前踏切〉は、立川から5つ目の踏切です。
  
(踏切の様子 復員約9mというのは、青梅線の踏切でも広い方です)

 幅が約9m有り、両脇にある踏切票が古めかしいことから、かつて(旧)陸軍立川航空支廠が上の画像の奥にあった頃からの大きさだと思います。立川航空支廠は、米軍立川基地を経て、その一角が今は〈国営昭和記念公園〉になっています。
 私の勤務する介護施設は西立川にあり、ご利用者様から昔の地元の話を伺うことも多いのですが、その中のお一人から、先日「立川飛行場物語」という本をお借りしました。


 大正から昭和時代の大半、立川に(旧)陸軍と米軍の飛行場があった頃を知る人たちの証言集です。昭和が終わる間近の1987年、昭和62年に発刊された本です。
貸してくださったOさんは、この本を印刷した会社にお勤めだったことから、ご自宅に愛蔵されていたこの本をお持ちくださったのです。
 上・中・下巻と、時代を追って、飛行場や立川の街に縁のある人たちの、様々な証言が収められており、とても興味深く読めました。

(踏切から西立川方向を望む)

 〈航空支庁前踏切〉についても少しだけ触れられていましたが、正しい名称が航空支「廠」なのに踏切の名前が航空支「庁」になったのかは不明なようです。
 支廠は広大で、西立川の隣、東中神駅近くまで広がっていましたが、今ではその痕跡はほとんど見られません。〈航空支庁前踏切〉は、ここに飛行場、基地があったことが分かる数少ない記しです。

2015/06/21

昔の記事(2010/6/22)から_奈良漬け食べて

 昔気質な方は、誰かに「おすそわけ」をするのが大好きです。
 今、デイサービスに勤務していて、通所されている方の中にも、『これ作ってみたから』とおっしゃって、他のご利用者様や職員のためにお惣菜などを持参される方がいらっしゃいました。
 会社としては、そのようなご利用者様同士や職員への物品のやりとりなどはご遠慮いただいており、その説明や施設内でお願いの掲示もしていますが、それでも『あげたいものはあげたい』というお気持ちは収まらないようです。
 先日、
『これ作ってみたから』と、お惣菜のやりとりがあったので、改めてご利用者様同士ではご遠慮いただくことをお願いしました。それ以降、その方は、私が挨拶してもプイっと顔を横に向けてしまいますw辛いところだけれど、万一にも衛生上の問題が起こさないためにも言わなければなりません。
 加えて、そのようなやりとりをできるだけの経済的なことや、身体能力的なことなどから、やりたくてもできない方もいらっしゃいます。世知辛いようですが仕方がありません。
 今、デイサービスに勤務していて、以前の職場、特養でも同じようなことがあったな…と思い出しました。以下、昔の記事です。
*****************************************************************************

 先週くらいまで夜勤が連続していたときに、入所者Oさん (80代、女性)から毎回のように「奈良漬け」をいただいていました。
 どうやらOさんは、私が「奈良漬け大好き」と思い込まれていたようです。何を根拠にそう思われたのかが未だに不明なのですが、とにかく6回にわたって奈良漬けをいただきました。
 その奈良漬けは、週に一度、出張販売に来る市内の食品店からOさんが購入し、共用の冷蔵庫にストックされていたようです。大きな奈良漬けを半分に切って、夜勤が始まって間もない時間帯に私に手渡してくれて、私は17時の夕食の際にいただいていました。
 実のところ、私は「奈良漬け大好き」ではありません。嫌いではないけれど、週に2~3回はちょっと頻度が高いと思います。ご厚意なのでありがたいのですが...

 本当は、入所者が職員に供応することは施設としては禁じています。しかし、Oさん以外にも数名の方が、職員に食べ物などを手渡すことはあります。飴を数個とかといったお菓子類が多いようです。どちらかというと女性入所者の方がその傾向があると思います。高い場所にある衣類などを取ってあげたりとか、ほんのちょっとした介助をしただけで飴を手渡されたりといった具合です。
 「お礼に何か形になることをしたい」というのは自然な気持ちの現れかもしれません。ちょっと穿った見方をすれば、「自分によくして欲しい」という気持ちもあるのかもしれません。または人の喜ぶ顔を見たいというお気持ちもあるかもしれません。いずれにしても、ささやかな気持ちの現れです。
 でも、だいぶ前に、ある女性入所者の方から、「お礼にあげる」と、着ていた下着の中から暖かくなったマーガリンのパックを手渡されたときは少々参りました。

 施設からほとんど外出する機会の無い入所者の方々は、ご自分のお金の使い道がありません。ご家族がいらっしゃる方は、それなりに使い道がありますが、冒頭に書いたOさんは独身です。Oさんにとって、私たちへの労いのお気持ちの現れと、ご自身の楽しみの一つになっているのかもしれません。

2015/06/14

天気予報と過去の出来事


 上の画像は、東京・立川市の南西部を東西に走る〈富士見通り〉沿いのアジサイです。青、紫、ピンク、白、様々な色と種類の違うアジサイが、沿道の約1kmにわたって植えられています。
 この道路は、立川市立第四小学校の生徒たちの通学路でもありますが、生徒たちの黄色い傘と相まって、朝は彩りある通りになります。

*******************************************************************

 デイサービスの小物に、一週間の天気予報と過去の出来事を書いたものを作ってみました。
 ご利用者様が着席するテーブルに置く、飲み物のメニュー表の裏面です。


 まだ試作品なので、デザインは改良していきたいと思いますが、天気予報と過去の出来事のメモは、ご利用者様たちに興味を持ってもらえる題材だと思ってます。
 私たちは〈機能訓練型デイサービス〉なのですが、だからといって運動や機能訓練ばかりを行っているわけではなく、それ以外の時間も楽しんでいただきたいと思っています。
例えば、施設に到着してからの30分は、お茶を飲んでいただきながらリラックスした時間を過ごしていただきます。そんなときに、ご利用者様同士の会話が弾むような小道具が欲しくて、作ってみました。
 誰にでも話題にしやすいこととして、天気のこと、ご自分たちの記憶に残っている過去のことなどは最適かもしれません。

過去にあった出来事は、ネット上で調べ上げてくれている人たちはたくさん居ます。その中から昭和の戦後のもの、中にはリアルタイムでその場を体験された方もいらっしゃることを想定しながら選んでみていく予定です。

 天気予報は、日本気象協会(tenki.jp)のデータを使いますが、これがなかなか便利な使い方を初めて知りました。
 会社ではブラウザにInternet Explorerを使っていますが、画面上で右クリックするメニューの中に、Excelの表を生成してくれる機能があります。


 tenki.jpの予報は10日間天気ですが、これを一週間単位で表作成させることも容易です。


 webページから生成された表の必要な部分をコピー&ペーストして、天気画像を貼り付ければ出来上がりです。

 ただ、前週の金曜日に作っておくと、土日の間に予報が変わってしまうこともあります。「おおまかな予報」くらいに見ていただくか、予報が変わったことは口頭で説明するか、月曜に作り替えるかで対応してみるつもりです。

 介護保険法は3年に一回の改正が行われ、今年の四月はそれに当りました。今回の改正は、私たちのような〈通所事業所〉には厳しいものでした。
今日、会社の全体会議があり、その中で収支報告がされましたが、3月と介護報酬が減額された4月を比較すると、見事に1割の売上げ減でした。ご利用者様は増えているのに売上げが大きく減っています。
 更に従来の〈要支援〉が〈総合事業〉となって、国から市町村直轄に移行(立川、昭島は来年度)することや、納税額の高い方の介護サービス費の自己負担が1割から2割に増額されることなど、厳しい環境に取り巻かれています。
 そんな中で、ご利用者様へのサービスの向上は譲れません。社長の「極めて気持ちの良い施設に」という強い意志を受けて、小さなことでも工夫は重ねていきたいです。

2015/05/23

タルタル・ソース



 タルタル・ソースが大好きです。
 上の画像は、多摩モノレール立川南駅近くにある<竹や>さんの<鶏カツ>です。カツも大きく、自家製のソースが、豪快にたっぷりとかけられていて大満足でした。

 タルタル・ソースが大好きになったのは、初めて食べたときからです。

 母方の祖母の家が千葉県成田市にあって、その行き来には上野から京成電車に乗っていました。
 京成上野駅は上野公園の下にあり、国鉄(!)上野駅とは離れています。山手線に乗り換えるために地下から外に出るのですが、出てすぐのところに<聚楽台>という大衆的なレストランがありました。2008年に建物が老朽化したために閉店、2012年に新しくなった建物には、もう聚楽台は無くなっています。

 新しい建物は綺麗で、聚楽台のようなテーブル席と座敷が混在する大衆食堂には似つかわしくないのかもしれません。
 

 ある年、成田から上野に着いたのが夕飯時だったことがあり、聚楽台が便利な場所にあったから、夕飯を食べて帰ろうということになりました。
 好きなもの選んで良いと言われ、エビフライを頼み、そのときに初めて<タルタル・ソース>を食べたのですが、子供心に「なんて美味しいんだ!」と思わせられました。それ以来、タルタル・ソースが大好きです。あれは初めて食べた<洋食>でもあったかもしれません。
 今日食べた竹やさんのタルタル・ソースは、初めて食べた、あの美味しいタルタル・ソースを思い出させてくれました。

2015/05/17

佰老亭(台湾料理)_川崎市高津区




 昨日の夕食は、東急田園都市線の二子新地駅近くにある台湾料理店<佰老亭(ひゃくろうてい)>さんに初めて食べに行きました。
二子新地駅は、再開発が進んでいる二子玉川駅から多摩川を越えて一駅め、二子玉川駅のホームから二子新地駅のホームもよく見えるくらい近い場所ですが、二つの駅の周りは、それぞれ全く違った雰囲気です。
 <新地>という言葉は、特に関西では料亭や芸妓さんの置屋があったりする場所を指しますが、二子新地の駅前の通りは狭く、その通りに何軒もの飲食店が並んでいて、かつての<新地>だった頃の雰囲気が感じられました。

 佰老亭さんに行ってみたかったのは、よく読むブログで何度も美味しそうに紹介されていたからでした。
 そのブログを書いている方は、隣の二子玉川が職場なようですが、わざわざ橋を渡って二子新地まで食べに行くことが多いようです。その方にとってそれくらい魅力的なお店なんでしょう。
 私も台湾料理は大好きなので、一度、行ってみたいと思っていました。
 


 もう暑くなってきたからか<冷やし中華>もメニューにありました。一番上に載っているのはクラゲです。食感がとても良い感じでした。
 

 餃子は、水餃子や茹で餃子もありますが、初回はオーソドックスに焼き餃子にしてみました。ごく普通な見た目で、皮も餡もオーソドックスなんですが(ニンニクはキツめ)、美味しい!



 <ジャガイモ炒め>を頼んでみました。シンプルに千切りしたジャガイモ、ニンニクと唐辛子だけを炒めたものですが、これがまたジャガイモの甘味、旨みが出て、とても気に入りました。多分、家で同じように作っても、同じような味にはならない気がします。炒め物が得意なのかな?と思わされました。


 もう一つ炒め物を頼んでみました。<コブクロ炒め>です。以前、名古屋にある<味仙>さんでも食べて、気に入ってるメニューなのですが、佰老亭さんでは、見た目は辛そうに見えなくても、しっかり辛味が効いていて、これもまた美味しいです。つくづく車で行ったためにお酒を飲めなかったのが残念です。



 台湾料理店らしく焼きそばにも<台湾焼きそば>がメニューにあったので、もちろん頼んでみました。平たい麺が好きなので、これも良かったです。香辛料は種類は分かりませんが、台湾現地で食べた風味を感じました。

 お店の中は写真を撮りませんでしたが、カウンターが15席くらい、10人くらいが入れそうな座敷が二間ありました。日中は店頭でテイクアウト販売もしているようです。
 夜9時くらいに行きましたが、地元のお客さんが数組入っていました。常連さんが多そうで、そんな感じのお客さんの一人に、
 「メニューに載っていない料理でも、マスターに頼めば作ってくれるよ」
 と、教えてもらいました。今度行くときは、何かお気に入りの料理から選んでみようかな?とも思います。
 お店のご主人夫婦と息子さん(?)、お客さんの間に、なんとも良い感じの距離感があり、お店の雰囲気もまた良かったです。

↓佰老亭さんの場所

2015/05/12

昔の記事(2011/05/24)から_昭和公園(東京都昭島市)

 以前にgooのブログに書いた記事のリサイクルです。
 今回は2011年の5月24日に書いたもので、東京都昭島市にある<昭和公園>について書いてありました。
 昭和公園は今の職場の近くにあり、毎日にようにその前を行き来し、公園の中を通ることもしばしばです。この記事を書いた当時は、愛犬の散歩に行くことはあっても、それほど身近には感じていませんでした。
 2011年5月には公園内にある小動物園のヤクシカに赤ちゃんが生まれていました。最近は、動物園の前まで行っていませんが、今年も生まれているかどうか、気になります。

*************************************************************************************

 今日の愛犬の散歩は、東京・昭島市内にある<昭和公園>に行ってみました。ここは時々出かけるお気に入りの場所です。
 国営の<昭和【記念】公園>と間違えられることがありますが、こちらの方がずっと古くからある公園です。造られた正しい年は知りませんが、昭島市のHPから読むと60年くらい前に造られた公園のようです。昭島市が発足する前、当時の<昭和町>にあったから<昭和公園>なのでしょう。
 昭和【記念】公園が有料なのに対し、昭和公園は入園は無料です。普通の、街の中にある公園なのですが、野球場や陸上競技場があったり、60年も経つと大きく育った樹木に囲まれていて、よく整備されている公園だと思います。

 トップの画像に載せた画像は、公園内にある小動物園の孔雀です。今日は珍しく羽を広げていました。孔雀の他にも数種の鳥類、ウサギなどが飼育されています。

 その中で今日、目を惹いたのは、ヤクシカの飼育エリアです。

 前回、5月5日に来た時には産まれていなかった子鹿がいました。まだ脚がおぼつかない様子で、生後間もないのかもしれません。


寄り添っているのは親鹿のようで、心配そうに側に居ました。
 雨ざらしの状態の蒸気機関車もあります。鉄道博物館などとは違って保存状態はよろしくありません。

2015/05/05

福島通り( 東京都昭島市)


JR青梅線・東中神駅前の踏切から、南方の多摩川べりまで真っ直ぐに伸びる道<福島(ふくじま)通り>があります。
 「ふくしま」ではなく「ふくじま」と濁るのは、同じ市内の拝島(はいじま)と共通しています。地名の謂れは知りませんが、共通する意味があるのかもしれません。


 

 東中神駅から江戸街道との五差路までは踏切と信号が続いて、車が並んでしまう場所です。普段、仕事で頻繁に通りますが、朝夕は両方向とも混みあいます。


 通りに面して<昭島市民図書館>がありますが、その脇に<福島通り>の標が建っています。<大山詣で>で往来する人たちが通っていたことが伺えます。この場所から北方の立川市内には<大山道>という名前の道も残っています。


 図書館前の説明書きにあった古い道標がある昭和公園の西入口に移動してみました。


 「右 福島渡舩場近道」と、書いてあるようです。


 違う面には「右 福島中神・・・」「左 立川停車場・・・」とありますが、古い道標で文字が見えなくなっています。


 標が建てられたのは大正9年のようです。その下に「築地支部(?)」と読めるようですが、何の支部だったのでしょう?


 福島通りを奥多摩街道から南下すると、多摩川べりまで緩やかな下り坂が続きます。今日はGW中だからなのか、車の通りが少ないのですが、普段は抜け道にも使われていて、けっこうな交通量があります。
 私の勤めるデイサービスに通っていただいている女性がこの近くにお住まいなのですが、狭い福島通りは、交通量のわりに歩道も無く、歩くのが怖いと言っていました。


 上の画像に<廣福寺>の看板がありますが、このお寺は豪壮で、立派な釣鐘堂もあります。奥のスーパーの看板が写らなければ、もっと良い雰囲気なのですが...


 多摩川べりに着いたところから振り返ってみました。ほぼ一直線な道です。画像中央あたりの両側には小さな田圃があります。昭島市内では少なくなった稲作地です。


 <福島の渡し>があったであろう場所です。対岸は八王子市の小宮町の辺り。昭和の初期までは渡しが使われていたそうですが、今は多摩大橋が架かっています。昔は、多摩川のあちこちに<渡し>があって、この近くにも<(八王子)平の渡し>などもありました。

 今日は仕事帰りの午後6時頃に行ってみましたが、晴れていたこともあって、ずいぶん陽が伸びたのが分かりました。
 普段は仕事で通り過ぎるだけの道ですが、自転車で移動してみると見落としていたものも見えてきます。